真田氏3代の郷

上田市真田町本原、ここが真田氏発祥の地だ
東に殿城山、西に東太郎山、背後には大松山がある南斜面の小高い処だ
広範囲に真田3代の足跡が見える
南には田園が開けている
後に本拠地となる上田城は、南西に6Kmほどの位置にある
ここにある真田氏館跡は、真田氏が上田城を築城する以前の居館跡で、四方を土塁で囲まれている
周囲は520m、中世豪族の典型的な居館の形態がみられる
隣接する真田氏歴史観では、真田3代の足跡を知ることができる
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将門伝説の地 日秀観音、将門神社、将門の井戸

我孫子のいたるところで、将門にまつわる話が伝えられている。
通称日秀観音、慈愍山観音寺は、行基が作ったという将門の守り本尊と言われる聖観世音菩薩が安置されている。
将門は、932年にこの近くに井戸を作り観音像を祭った祠を作ったという。
今日は釈迦の誕生日。花まつりに近くの人がやってきていた。
形の良い桜の大木が境内を覆うように花開き、風に乗った花吹雪が古をもい浮かべさせる。
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DSC_3165将門日秀観音

DSC_3168将門

日秀観音の境内には、「首曲がり地蔵」がある。
将門は、藤原氏が牛耳る朝廷の搾取に関東一円で反発し、地元の人々の支持を得た。
関東を理想郷として独立させようと新皇と称した。朝廷は反乱とみなして、940年に将門を討った。
この間、成田さんは将門調伏の祈祷を行ったという。
将門を敬う日秀の人たちは、成田山には足を運ばなくなったといい、その意思を示すため地蔵が成田山の方角を向かないように曲げて作られたという。
DSC_3164将門首曲がり地蔵

日秀観音から南へ下っていくと、右に将門神社、左は将門の井戸がある。
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将門の作ったという井戸は、四角い石囲がそこにあるすり鉢状のものだ。
日秀地区のハケの道付近に、今でも残されている。
井戸のそばでは、アカタテハが舞っていた。
DSC_3157将門アカタテハ

940年に将門が戦没するとその霊は対岸手賀沼村明神下より手賀沼を騎馬にて乗り切り、湖畔の岡陵に登り朝日の昇天するを拝したという伝説があり、、村人が一宇を奉祀したのが将門神社の起こりと言われている。
日秀は将門が幼いころ過ごした土地と言い伝えられ、地元の将門ひいきはその当時からだった。
DSC_3135将門

日秀地区には相馬郡衙正倉跡が残っている。
6世紀から10世紀にかけて作られた、租税の米を貯蔵する施設だ。
将門のころ、図のような大規模のものになったという。
近くの丘陵では、山桜が色づいていた。
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天神坂、三樹荘と加納治五郎別荘跡(我孫子の史跡)

天神坂の近くに、古くからのせんべいやがある
昔から市民に愛された味だ
天神坂の入口に案内板がある
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狭いく階段が見える、これが天神坂
坂に入ると左手に見える洒落た家がある所が三樹荘跡
天神坂を登っていくと途中の左手に3本のスダジイがそびえている
「智・財・寿」を象徴する木と当時の人は言っていた
ここを別荘の敷地としたために『三樹荘』と命名したようだ
三樹荘は、明治45年に嘉納治五郎の姉と姪が暮らした
甥である柳宗悦が、大正3年からの6年間住んでいた
やがて白樺派同人だった志賀直哉や武者小路実篤も我孫子に移住してきた
さらにイギリス人陶芸家のバーナード・リーチが三樹荘で窯を築いて作陶にはげむようになった
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加納治五郎別荘跡
嘉納治五郎は明治44(1911)年に柔道の弟子血脇守之助(我孫子出身、日本歯科大学創設、野口英世のパトロン)が我孫子を紹介したのがきっかけで別荘を持った
甥の柳宗悦が住み、第五高等学校時代の嘉納の教え子の東京帝国大学教授の村川堅固が我孫子に別荘を持つなど、我孫子に多くの文化人が住むようになったのは、嘉納の影響があった
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嘉納治五郎と手賀沼
嘉納が我孫子の手賀沼湖畔に別荘を建てたのは、美しい景観をこよなく愛したからと思われる
昭和初期に国営の手賀沼干拓計画が持ち上がり、手賀沼に危機がやって来た
嘉納は、我孫子在住の杉村楚人冠(東京朝日新聞記者)や村川堅固らと協議して干拓反対のために「手賀沼保勝会」を設立し、当時の農林大臣あてに「手賀沼干拓計画中止の陳情書」を提出した
やがて嘉納らの干拓反対運動が功を奏し干拓の危機をまぬがれ、手賀沼は残ることになった
その後、嘉納が委員を務める1936年のIOC会議で東京オリンピック (1940年)招致に成功した
しかし戦争の激化により開催を返上することになった
オリンピックが実現していたら、手賀沼をボートレース会場とする計画があったようだ

志賀直哉邸跡(我孫子の歴史散歩)

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旧村川別荘からハケの道を500m近く西へ向かうと、左に白樺文学館、右手に志賀直哉別邸宅跡がある。
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志賀直哉邸宅跡は母屋は残ってないが当時の庭木を残し、移築された茶室風書斎が残っている。
「白樺」同人の柳宗悦から我孫子の売り家を勧められ、大正4(1915)年に25.6坪の茅葺の家に3部屋増築し、生涯はじめて志賀直哉が自家を持った。
志賀直哉の住まいは、現在残る書斎とともに緑雁明緑地にあった。
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緑雁明緑地上から見た書斎の建物。
緑雁明緑地の大部分は、現在住宅地になっている。
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ここで二男三女をもうけ、長年不和であった父親との和解を題材にした小説『和解』は、正6年にここで執筆された。
また我孫子の地で『城の崎にて』、『小僧の神様』、『暗夜行路』を次々に発表し、充実した作家生活を送った。
我孫子を題材にした小説を多く書いた。『雪の日』『流行感冒』などは、当時の我孫子の情景ばせる。
1..2Km西に離れた武者小路実篤とは、目の前の手賀沼を舟で往来していた。
大正12(1923)年、志賀は我孫子を離れ、京都に向かった。

旧村川別荘(我孫子の史跡散歩)

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100年前、手賀沼を愛した帝大教授村川堅固は、大正6年に沼を一望できる丘の中腹に別荘を設けた。別荘は子ノ神大黒天へ通じる「子ノ神道」という江戸時代以来の古道に面し、敷地面積は約3,000平方メートル、沼への傾斜地を切り開いた起伏にとんだところで、「母屋」と「新館」と呼ばれる2つの建物がある。
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母屋は、大正10年に我孫子宿本陣の離れを解体、移築したもので、当初は茅葺屋根だった。江戸の佇まいを残す純和風の建物で、村川一家はこの建物で食事や入浴などの生活空間として使っていた。
おりしも、ひなまつりのイベントの最中
ひな飾りが部屋中を占領していた
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新館は、昭和3年に斜面地を活かして建てられた銅板葺、千鳥破風の建物で反りのきつい屋根が特徴的。建物の土台は鉄筋コンクリート造り、建物の中は寄木のフローリング、出窓、沼方向へ広くガラス面を取った手すり窓、床の間、地袋など和洋折衷の建物。
村川別荘へは、子の神大黒天入り口の隣
356およびハケの道いずれも出入り口が並んでいる
ハケの道ではいまだに清水が湧き出し、古の街道の雰囲気を残していた

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我孫子の史跡1

子之神大黒天、延寿院 (我孫子の史跡散歩)


我孫子は東西に細長い
昔は現在の国道356付近を尾根とした、とてもほど長い台地だった
南は手賀沼が迫り、北は鬼怒川(江戸の付け替え工事以降利根川)があった
現在の我孫子駅から東に300mほどのところに我孫子宿があって成田街道と水戸街道へ分かれていた
子之神大黒天、延寿院は我孫子宿から700m東にあり、国道356から、あるいはハケの道から入ることができる

356経由から入ると、屋根付きの鳥居がある
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ハケの道からは、急な階段を上って入る
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  子之神大黒天略縁起では、行基菩薩(行基を慕って教えを乞うた1000人)が、諸国国分寺を巡る折りに、下総国分寺で薬師如来と十二神将及び大黒天を刻んで安置した。
しかし、国分寺が度々火災の厄にあうので、尊像を各地に奉遷することとした。「子大将神と大黒天の尊像は、三方に湖水を見下し松杉のそれにも増して厄除ひいらぎの霊木の群茂する当地に康保元年(964)1月8日に一宇を建立したという(子の年の子の日)。
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延寿院は白花山と号し真言宗豊山派の寺院(開山開基不詳)、古くから子之神の別当寺(神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺)で、大正7年6月に子之神境内に移転した。
境内には神仏混淆の色彩が強い。本尊は不動明王で、他に厨子入木造彩色の子将神像及び厨子入のえびす、大黒天像その他の像がまつっている。
子之神大黒天延寿院には、源頼朝が脚気にかかると夢に白ネズミに乗った翁が現れ、柊で足を祓うと治ったといわれる伝説があり、足腰の病に効験があるとの信仰がひろまり、参詣者で賑わうようになったとされている。
絵馬の代わりに、金のわらじに願いを書いて奉納するのは、面白い。
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街道筋に寛政元年(1789)と12年造立の道標はそれを物語り、安政3年(1856)3月15日より60日間深川永代寺にて下総国我孫子宿権現開帳(別当延寿院)したと伝えられている。また文化3年(1806年)には、小林一茶も参詣したとされる。
毎年10月の第4日曜日に「柴燈護摩(さいとうごま)火渡り」が行われる。
東のはずれには子の神古墳がある。小さな前方後円墳だ。
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ここの近くに、蝶の生育を展示しているお宅がある。出窓に蝶の標本と生育中のさなぎが展示され、3月中旬には蝶になるという。
さなぎから蝶になる瞬間を見られると、いいなぁ~と思う。
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松虫寺

旧印旛村(現在は印西市)の松虫寺に行った
もっとも行った目的は、午前中のテニスの後のランチをマツムシコーヒーと言うカフェで食べるためだった
自家焙煎、オリジナルブレンドのコーヒーが美味しい店だ
その隣は、1300年前に建立された松虫寺だ
寺のいわれは、とても興味深い
聖武天皇の第三皇女の松虫姫にまつわるという
不治の病だった姫が、印旛沼近くにある薬師如来が直せるというので、はるばるやってきた
その甲斐あって病は癒えて京に戻った
聖武天皇は行基に命じて薬師物をもって一寺を献じて松虫寺とし、姫の関係者が印旛沼界隈に残り、姫の没後は遺骨を分骨したのだそうだ
その詳しい言い伝えはこちらを参照してください
往時の境内の様子は千葉県立博物館デジタルミュージアムをご覧ください
奈良東大寺と同じ歴史の古い松虫寺です

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江戸東京たてもの園 三井八郎右衞門邸

江戸東京たてもの園の西ゾーンにある三井八郎右衞門邸です
昭和27年(1952年)に西麻布にに建てられたそうです
三井家11代、三井八郎右衛門高公が戦災で焼けた邸宅に代わって建てたたもので、京都油小路、神奈川大磯、世田谷用賀、今井町の三井家の施設から建築部材、石材、植物などが集められ建築
明治30(1897年)京都に建てられ客間と食堂部分、南側にある望海床は大磯の別荘より移築されて、明治7年(1874年)の建築当初に復元された土蔵とともに三井邸を構成しています

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デ・ラランデ邸

江戸東京たてもの園の明治時代の洋館です
1910年年ころ、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデにより建られました
1999年まで信濃町に建っていたのを移築保存しています
こじんまりとした洋館は、丁寧に作られた今でも素敵な洋館です
この洋館の1階では軽食喫茶のサービスがあります
また、洋館内と庭のテーブルは、休憩や食事に使えます

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江戸の豪農 天明家

江戸のはずれ鵜ノ木村(大田区鵜ノ木一丁目)で村役人の年寄役を勤めた豪農の天明家
千鳥破風の主屋、大きな長屋門が目を引きます
3000坪の敷地に枯山水の庭などがあったと言います
長屋門は一見小さな家と思われるほどの造り
母屋には女中部屋を備えたゆったりとした建物です

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高橋是清邸

6度目の大蔵大臣に就任した高橋是清
その当時、インフレが予期されたのでこれを抑えようとして軍事予算の縮小を図った
それが原因で昭和11年の二二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発撃たれ殺された
その現場が、高橋是清邸の2階で、東京赤坂にあったものを移設した
2階の書斎は是清の無念な姿を思い描くことができそうだった
6度も大蔵大臣に就任した是清の館は、広くて贅沢なものだ
江戸東京博物館には、多くの歴史を背負った建物があった

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旧前田侯爵邸

本郷に在った前田家の邸宅は関東大震災で大きな被害を受け、赤門だけは無事だった
東大本郷の拡張のため、駒場の土地と交換して洋館の旧前田侯爵邸が建てられたのは昭和4年だった
翌年たてられた和館は、修復中で見ることができない
邸宅を含め現在は駒場公園になっている

洋館は、震災後だったのでコンクリート造の耐震構造だ
チーク材の梁や柱、イタリア産大理石、フランスの絹織物、イギリス製の家具などが配され、古今東西の美術品で飾られた豪奢な洋館だ
ボランティアガイドの方の説明を聞き、近代建築を楽しんだ
1階では喫茶で休息がとれる
必見に値する重要文化財だ

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10)旧前田侯爵邸

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旧前田侯爵邸

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11】前田侯爵邸でボランティア説明を聞く

12)重厚な造りの前田侯爵邸

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東京ジャーミー(モスク)

東京ジャーミーを訪れた1917年にロシア赤軍に迫害されたトルコ国籍のタタール人が日本に亡命、日本政府は保護し多くの寄付金を得てサラセン式ドームを持つ礼拝堂が1938年に建設された
老朽化したので、2000年に現在のものがトルコ政府とトルコ国民の寄付により再建された
トルコ大使館が資金を出して運営される、日本では最大級のモスクだ
その外観及び内装は美しいイスラムのモスクで、訪れるに値する
また、トルコ文化センターが併設されている

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追分宿

追分は、道路の分岐点のことを言い、各地に追分の地名が残る
追分宿と言うと、軽井沢町にある北国街道と中山道の分岐点にある宿場町をさす
中山道宿村大概帳(1843年)によれば、追分宿の宿内家数は103軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒で宿内人口は712人と記されている
現在はその一部を見ることが出来、その当時をしのぶことのできるのは、あまりない
本陣跡や脇本陣跡、古い社寺などに、面影が偲ばれる

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碓氷第三橋梁

碓氷川に架かる煉瓦造りのアーチ橋を碓氷第三橋梁といいます
旧国鉄信越本線横川 - 軽井沢間のアプト式鉄道時代に使われた橋です
イギリス人技師の下で作られ、1893年に完成した

1963年に新線が建設されてアプト式鉄道が廃止された
全長91m、川底からの高さ31m、国の重要文化財
世界遺産のリストに登ったが、橋梁に落書きが多発し頓挫したとか・・・・

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世界遺産富岡製糸場の街

富岡製糸場の外観は、明治の息吹を感じさせるものでした
工場の内部はすべて見ることはできませんが、中古の機械とはいえ、日本人技術者の工夫で大きく改善されたもの
近代日本が技術立国として目指したものの一つでした
また、工場の建物の配置や作り方は、その後の日本の工場の手本になったのでしょう
私が大学を出て就職した工場にも、名残が残っていたようです
とても懐かしさを感じたのは、そのせいだったのでしょう

世界遺産のある街は、やはり雰囲気に歴史を感じさせます
市内に加賀前田家、前田利家の五男利孝の七日市藩邸があります
街の周辺の水田は黄金色になり、実り大きな秋を迎えていた

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世界遺産 富岡製糸場

つい最近、世界遺産になった富岡製糸場に行ってきました
明治維新政府の富国強兵政策の一つとして、日本の絹産業の礎となった施設です
海外貿易で収入を得る一つの手段として、絹に着目
フランスの中古の製糸器と、フランス人の技術者の指導の下はじめられ、経験を積んだ技術者や女工は全国各地での指導的役割を担ったと言います
建物の多くは明治5~6年に建てられたものが、現在も維持されています
これまでの長期間多くの人たちに受け継がれ、操業が停止した後も一企業の熱意で維持されてきました
乾燥場など一部は、昨冬の大雪で倒壊して、復旧の予定でした

建物はとても懐かしい感情を抑えきれないものです
女工の寄宿舎、フランス人技師の住んでいた館、大きな煉瓦造りの工場、白ペンキ塗りの木造の建造物・・・・
先ずは、その外観を!

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めがね橋

旧信越本線碓井第三アーチは、明治25年に造られた
ドイツのハルツ鉄道を手本に、アプト式鉄道が碓井峠に作られました
現在は廃線になったが、めがね橋として愛されています

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千住宿

最近人気の千住宿、資料によると・・・・
1594年に、江戸に封された徳川家康が千住大橋を架けると急速に発展し、千住町とされた
1625年に日光・奥州両街道の初宿に指定され、水戸街道はここから分かれていたという
幕末には家が2,400をこえ、人口は約1万人に達する宿場町だった
野菜市場や米問屋街が形成され、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けられていたという

その名残は・・・
歩き始めたら雷雨になり始め、入り口で戻ってきた
しかし、北千住には古き良き名残がありそうだった

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箱根旧街道杉並木と恩賜公園

元箱根から恩賜箱根公園近くまで500メートルほど続く箱根旧街道の杉並木
400年ほど前に植林された400本を越える樹齢400年近くの杉は見事です
この並木を歩くと、強い日差しが遮られて涼しい
冬は芦ノ湖を渡る冷たい風から、旅人を守ってくれたのでしょう
巨木は周囲4メートルを超えるものばかりです

杉並木から恩賜公園方面へ行くと、芦ノ湖の片隅
落ち着いた風情がとても良い
そして丘を登ると、見晴らしの良い明治天皇時代の離宮跡に出ます
離宮は西洋建築と日本建築の二つがあったという
今は、西洋建築の離宮を模した展望台があります
芦ノ湖が一望する見晴らしの良い所ですが、曇っていたので富士山は見えませんでした

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柳橋・薬研堀不動院

両国橋の西端の神田川に、柳橋がかかっている
橋を渡ると浅草橋だ
江戸の初めには渡船で往来していたが、1697年(元禄)に架橋された
明治になって鋼鉄になり、関東大震災で焼失して現在の橋になった
柳橋界隈には1630年に江戸幕府により浅草御蔵が建設され、幕府の米蔵となった
また、その周辺に諸大名江戸屋敷がおかれ、多くの宿場があった
その頃は隅田川の船遊び客の船宿も多く、花街として柳橋芸者が唄や踊りで接客した
今でも船宿の名残があり、屋形船が繰り出される
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薬研堀不動院は、かつてあった薬研堀(薬研のようなV字に掘られたので名づけられた)近くにある
本尊の不動明王は、1137年覚鑁上人が、紀州・根来寺に安置されたもの
その後、1585年に豊臣秀吉勢の兵火を避けるためこの地に堂宇を建立し安置したのが、薬研堀不動院のはじまり
明治25年より川崎大師の東京別院・薬研堀不動院となった
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旧村川別荘 我孫子市

大正時代に東京帝国大学教授の村川堅固が、江戸時代の末期の我孫子宿本陣の離を移築した旧村川別荘
屋根が萱葺きだったという
村川が旧第五高等学校時代に校長だった加納治五郎が我孫子に住んでいたのが縁で、この地に居を構えたと言われています
この古い建物で、吊るし雛製作グループが展示をしていました
我孫子のひな祭りです

我孫子の手賀沼を一望する小高い南斜面に、旧村川別邸があります
門をくぐると、南に下がり母屋と新館がありました
さほど広くない母屋には雛と吊るし雛が飾られ、節句を祝う雰囲気の中にありました

障子の手の込んだ細工と、欄間の透かし彫りが旧家を偲ばせます

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結城の蔵

紬問屋や商家が並ぶ結城の古い街並み
見せ蔵という土蔵が今でもたくさん見られる
明治初期から昭和初期にかけて、多くの商家が耐火性の強い蔵造りの家を造った街並みが残されています

紬の郷結城は、蔵造りの町並み、古刹、紬工房など見どころがたくさんでした
秋の黄葉、春の桜、初夏のアジサイの頃が訪れるのに良い季節のようです

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松戸の本土寺

松戸の本土寺は、1277年に創建
後に日蓮聖人が長谷山本土寺と名付けた古刹
境内内には1000本のカエデ、5000株のハナショウブ、10000株のアジサイが植えられ、四季折々の花が美しい
アジサイ寺として親しまれています

先週、今年最後の紅葉狩りを楽しみました

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通称・ニコライ堂

秋葉原から歩いて、神田明神、湯島聖堂を経て神田駿河台のニコライ堂に来た
通称・ニコライ堂は、正教会のロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライに因んだもの
正式名称は「東京復活大聖堂」です
ニコライ堂は、明治から大正にかけて多くの建築物を建てたジョサイア・コンドルが実施設計を担った
旧古川邸、旧岩崎邸はニコライ堂とともにのこるコンドルの傑作です

初冬の駿河台立つニコライ堂は、礼拝中の賛美歌だけが聞こえる静寂の中でした

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都心の秋・湯島聖堂

秋葉原から、神田明神、湯島聖堂へ歩くと、都心は晩秋だった
紅葉した葉は多くが落葉し、モミジの黄色がまだ枝にへばりついて金色に光っていた

湯島聖堂は寛永9年に由来し、徳川家綱がこの地に移設した
数度の江戸大火で被災してかつての面影はほとんどない
現在のものは、関東大震災で罹災炎上し、その後再建されたものだ
入徳門を入ると巨大な孔子ゆかりの「楷の木」の黄葉が見事だった

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結城 弘経寺

結城の弘経寺は、江戸初期に家康の次男結城秀康が開いた古刹です
結城秀康は、幼くして秀吉の養子(人質)として過ごし、二代将軍には弟の秀忠に後れを取ったが、武勇抜群、剛毅でかつ人望もあったとか・・・
30代前半で病死した
弘経寺は、いかにも武家が建てた寺に相応しい様相をしていた

豪壮な弘経寺の上空は曇りがち
ふと見ると日暈が出ていた
うっすらと、ほのかに虹がかかっていた
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紬の里・結城

思い立って結城へ出かけた
初めて訪れる結城は、歴史の古い城下町です
結城紬の歴史は2000年近くなるという
ユネスコの無形文化遺産に指定されています

最初に観光センターで情報を得て、つむぎの館へ向かいました
明治後半に建てられた奥順という結城紬の製造卸問屋さんです
体験コーナーや陳列、資料館の「手緒里」などを見学しました
古い建物群は登録有形文化財の指定がされていても、まだ社屋として現役です
壱の蔵、弐の蔵や土蔵、店舗や離などが保存されていて、必見です

陳列館は午後見学することにして、昼食へ向かいました
が・・・木曜日はお店がすべてお休み
お腹を空かせてウロウロして・・・「そば処たむら」の暖簾を見つけました
年中無休という「たむら」さんは、手打ちそばとうどんが美味しいお店でした
「とろろ付もりそば」は絶品でした

町中歩き疲れて一休みするカフェや甘味屋さんなど、すべて休みなのには合点がいきませんでした
観光センターで「木曜定休」について一言もなかったのは、とても残念
ランチすら食べるのに苦労するとは、思いもよりませんでした

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第五福竜丸

夢の島の第五福竜丸を見学しました
被爆して乗組員が次々に亡くなった事件は、未だ8歳だったけれどよく覚えています
マグロは食べてはいけないとか、ガイガーカウンター、放射能、ビキニ、水爆実験などなど、忌まわしい言葉を覚えたのは、この時でした
マーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカがたびたびおこなった水素爆弾の実験で、被爆したのでした
そして数年後の1959年に新藤兼人監督によって造られた映画を見ました

第五福竜丸は、あらかじめ知らされた危険水域の外にいて被爆しました
同様に被爆した人たちは2万人とも言われています
未だにマーシャル諸島の人たちは、故郷に戻れていません

大学で学んだ核化学を思い出しました
放射線を出しながら、他の放射性元素に崩壊することを繰り返し、安全が確保されるまでに途方もない時間がかかる核分裂反応は、人類がコントロールできないものです
核反応の怖さを再認識させられました
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熱海 起雲閣

鉄道大臣を務めるなどした内田信也氏が 1919(大正8)年に造った別荘
その後根津嘉一郎を経て、1947(昭和22)年に高級旅館として生まれ変わり、今もその当時の姿を残しています
山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治など 日本を代表する文人が好み逗留したそうです
三島由紀夫が新婚旅行で逗留した当時の宿代は、現在にすると30万円だというから、驚きです
最古の建物は100年の歴史があり、和洋織りなす建物が連なり、目に鮮やかな群青壁やステンドグラス、螺鈿細工、シャンデリア・・・など見ごたえがあります
シックなカフェで一休みすることができます

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