天神坂、三樹荘と加納治五郎別荘跡(我孫子の史跡)

天神坂の近くに、古くからのせんべいやがある
昔から市民に愛された味だ
天神坂の入口に案内板がある
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狭いく階段が見える、これが天神坂
坂に入ると左手に見える洒落た家がある所が三樹荘跡
天神坂を登っていくと途中の左手に3本のスダジイがそびえている
「智・財・寿」を象徴する木と当時の人は言っていた
ここを別荘の敷地としたために『三樹荘』と命名したようだ
三樹荘は、明治45年に嘉納治五郎の姉と姪が暮らした
甥である柳宗悦が、大正3年からの6年間住んでいた
やがて白樺派同人だった志賀直哉や武者小路実篤も我孫子に移住してきた
さらにイギリス人陶芸家のバーナード・リーチが三樹荘で窯を築いて作陶にはげむようになった
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加納治五郎別荘跡
嘉納治五郎は明治44(1911)年に柔道の弟子血脇守之助(我孫子出身、日本歯科大学創設、野口英世のパトロン)が我孫子を紹介したのがきっかけで別荘を持った
甥の柳宗悦が住み、第五高等学校時代の嘉納の教え子の東京帝国大学教授の村川堅固が我孫子に別荘を持つなど、我孫子に多くの文化人が住むようになったのは、嘉納の影響があった
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嘉納治五郎と手賀沼
嘉納が我孫子の手賀沼湖畔に別荘を建てたのは、美しい景観をこよなく愛したからと思われる
昭和初期に国営の手賀沼干拓計画が持ち上がり、手賀沼に危機がやって来た
嘉納は、我孫子在住の杉村楚人冠(東京朝日新聞記者)や村川堅固らと協議して干拓反対のために「手賀沼保勝会」を設立し、当時の農林大臣あてに「手賀沼干拓計画中止の陳情書」を提出した
やがて嘉納らの干拓反対運動が功を奏し干拓の危機をまぬがれ、手賀沼は残ることになった
その後、嘉納が委員を務める1936年のIOC会議で東京オリンピック (1940年)招致に成功した
しかし戦争の激化により開催を返上することになった
オリンピックが実現していたら、手賀沼をボートレース会場とする計画があったようだ

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